海南島の女性 日本政府を告発

       
 
  2001年7月16日、林亜金さんら8人の女性が、日本国に謝罪と賠償を求める「海南島戦時性暴力被害裁判」をおこした。
  2001年11月の東京地方裁判所での第1回裁判のとき、原告のひとり黄有良さんが証言をおこない、2005年3月に、   林亜金さんと張応勇さんが証言し、2006年3月に、陳亜扁さんが証言した。
  8人の原告のうち、譚玉蓮さんは2003年12月に、黄玉鳳さんは2004年9月に亡くなられた。  2002年10月にお会いしたときには、黄玉鳳さんは、お元気そうだったが。
  譚玉蓮さんの訴訟を承継して、李徳良さんが、黄玉鳳さんの訴訟を承継して王徳雄さんらが原告となった。
  第一審の判決は、2006年8月30日だった。東京地方裁判所民事24部(矢尾渉裁判長)は、日本軍の犯罪事実を具体的に明確に認定しながら、原告の名誉回復と日本政府の謝罪と国家賠償請求を棄却した。   裁判長は、日本国の不法行為性を認定しながら、司法の正義を守ろうとしないで、原告の請求をすべて棄却した。
 原告と弁護団は、ただちに控訴した。 東京高等裁判所での控訴審は、2007年5月に開始される。 
原告が日本国に要求している
謝罪文と謝罪広告
林亜金さんと張応勇さん
2005年3月16日 東京地裁・高裁前
この日、二人は、法廷で証言した
林亜金さんと張応勇さん 弁護事務所で
証言のため、病気を隠して、海南島保亭から日本東京まで来てくれた張応勇さんは、この9か月後に、亡くなった

 

  林亜金さんと張応勇さんが、東京地方裁判所で証言した2日後、2005年3月18日に、東京高等裁判所で、中国人「慰安婦」裁判第2次訴訟の控訴審判決が出された。この判決を、林亜金さんと張応勇さんは傍聴した。
  郭喜翠さんと侯巧蓮さんは、1996年2月に、被害事実の認定と、日本政府の公式謝罪と賠償を求めて提訴したが、侯巧蓮さんは、1999年5月に、亡くなられた。
  控訴審判決は、原告が1949年から中華人民共和国政府のもとに生活しているにもかかわらず、1952年に蒋介石政権との間に締結された「日華平和条約」にもとづいて、原告の損害賠償請求権の放棄を認定する不当判決だった。
原告、郭喜翠さん(車いすの女性)の
そばに立つ林亜金さんと張応勇さん
2005年3月18日不当判決直後 東京地裁・高裁前
 
林亜金さんが住む村と林亜金さんのことば
自宅前で話す陳亜扁さん

 黎族のAさん(1928年生)は、日本兵に自分の家で強姦された。その後、日本軍に連れて行かれるのを、両親はどうすることもできなかった、という。
 Aさんは、日本軍がいなくなったあと、家に帰ったが、まわりから差別され、故郷で暮らすことに精神的に耐えらきれなくなって、山の中で社会と隔絶された生活を始めた。
 1950年5月に共産党軍が海南島を解放したあと、行政機関に指示されて山を降りた。
陳亜娘さん (2002年当時、90歳余り)
「朝鮮村」近くの紅花村で
ケ玉民さんの村

 2002年10月、わたしたちは、祖関の陳亜扁さんの自宅を訪問し、話を聞かせていただいたが、2005年、再訪した。
 陳亜扁さんは、2004年、胃病で入院したが回復し、“日本政府に責任をとらせるまでは死なない”と言った。陳亜扁さんの家の近くに日本軍の兵舎があったという。
陳金玉さんを囲んで(2002年10月20日)
陳亜娘さん
 「2番目の弟が遊撃隊に入った。日本兵が来て、共産党がどこにいるのかしきりに聞いた。知っていて、言わなければひどいことをされるので、山に逃げた。
 日本軍は、娘を見れば、捕まえていった。
 日本兵が来ると、女は顔に土を塗った。女だとわからないように。
 叔母が日本軍に連れていかれた。1年余りたって、日本が負けたあと、村に戻ってきた」。
ケ玉民さんを囲んで(2002年10月20日)
 苗族のBさん(1929年)は、監禁されていた日本軍の兵舎から逃げ、父、母、妹の全家族で山にはいった。日本軍が投降したことを知らず、1945年末まで山中に隠れ住んでいたという。
黄玉鳳さんの家
黎族のCさん(1926年生)
 「日本軍基地に連れていかれたあとも、6回逃げた、連れ戻されるたびに拷問されたが、最後には、両親を連れてきて、“お前が逃げるからこうなるんだ”といって、父にも母にも、日本軍兵士が電気拷問をした。そのときから、‘運命’ だと思って逃げるのをやめた」。
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