林亜金さんが住む村と林亜金さんのことば
自宅前で話す陳亜扁さん
黎族のAさん(1928年生)は、日本兵に自分の家で強姦された。その後、日本軍に連れて行かれるのを、両親はどうすることもできなかった、という。
Aさんは、日本軍がいなくなったあと、家に帰ったが、まわりから差別され、故郷で暮らすことに精神的に耐えらきれなくなって、山の中で社会と隔絶された生活を始めた。
1950年5月に共産党軍が海南島を解放したあと、行政機関に指示されて山を降りた。
陳亜娘さん
(2002年当時、90歳余り)
「朝鮮村」近くの紅花村で
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ケ玉民さんの村
2002年10月、わたしたちは、祖関の陳亜扁さんの自宅を訪問し、話を聞かせていただいたが、2005年、再訪した。
陳亜扁さんは、2004年、胃病で入院したが回復し、“日本政府に責任をとらせるまでは死なない”と言った。陳亜扁さんの家の近くに日本軍の兵舎があったという。
陳金玉さんを囲んで(2002年10月20日)
陳亜娘さん
「2番目の弟が遊撃隊に入った。日本兵が来て、共産党がどこにいるのかしきりに聞いた。知っていて、言わなければひどいことをされるので、山に逃げた。
日本軍は、娘を見れば、捕まえていった。 日本兵が来ると、女は顔に土を塗った。女だとわからないように。
叔母が日本軍に連れていかれた。1年余りたって、日本が負けたあと、村に戻ってきた」。
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ケ玉民さんを囲んで(2002年10月20日)
苗族のBさん(1929年)は、監禁されていた日本軍の兵舎から逃げ、父、母、妹の全家族で山にはいった。日本軍が投降したことを知らず、1945年末まで山中に隠れ住んでいたという。
黄玉鳳さんの家
黎族のCさん(1926年生)
「日本軍基地に連れていかれたあとも、6回逃げた、連れ戻されるたびに拷問されたが、最後には、両親を連れてきて、“お前が逃げるからこうなるんだ”といって、父にも母にも、日本軍兵士が電気拷問をした。そのときから、‘運命’
だと思って逃げるのをやめた」。
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